河野洋平 元衆議院議長が死去 89歳

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河野洋平 元衆議院議長が死去 89歳

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6月10日

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自民党総裁を務めた河野洋平 元衆議院議長が、亡くなりました。89歳でした。

河野洋平氏は、神奈川県平塚市の出身で、父親は農林大臣だいじんや建設大臣だいじんを務めた河野一郎氏、叔父は参議院議長を務めた河野謙三氏という政治家一家に育ちました。

1967年の衆議院選挙せんきょで、父・一郎氏の跡を継ぐ形で、旧神奈川3区から立候補こうほして初当選し、14回連続で当選しました。

この間、1976年に自民党の金権体質を批判ひはんして離党し、新自由クラブを結成して、代表に就任しました。

その後、1985年には、自民党と新自由クラブの連立政権せいけんだった第2次中曽根第2次改造内閣ないかくで、科学技術ぎじゅつ庁長官として初入閣しました。

翌年には、新自由クラブを解散して自民党に復党し、1992年に、宮沢改造内閣ないかくの官房長官に就任しました。

そして、慰安婦問題に対する政府せいふ謝罪しゃざいと反省を示した、「河野官房長官談話」を発表はっぴょうしました。

また、1993年の衆議院選挙せんきょで自民党が敗れやぶれる、細川内閣ないかくが発足した際、野党やとう・自民党の総裁に就任し、党の立て直しにあたりました。

さらに、当時の細川総理大臣だいじんとのトップ会談で、衆議院の小選挙せんきょ区の定数を300とする小選挙せんきょ区比例代表並立制の導入を実現させました。

1994年には、自民・社会・さきがけの3党連立政権せいけんとなった村山内閣ないかくで副総理兼外務大臣だいじんを務めたほか、1999年には、小渕第2次改造内閣ないかくで再び外務大臣だいじんに就任しました。

そして、2003年には衆議院議長に就任し、各国の議会との交流などに尽力したほか、2007年の参議院選挙せんきょ以降、衆参両院で多数派が異なる、いわゆる「ねじれ国会」の中で、法案審議などが円滑に進むよう、与野党やとう間の調整に尽力しました。

河野氏は、衆議院議長を5年半余りにわたって務め、2009年の衆議院選挙せんきょには立候補こうほせず、政界を引退しました。

一方、河野氏は、重い肝臓病の治療で、2002年に、長男の河野太郎・元外務大臣だいじんから肝臓の一部を移植する生体肝移植の手術を受け、臓器移植の推進にも積極的に取り組みました。

また、河野氏は、憲法9条の改正に慎重な姿勢を示すなど、自民党内では「ハト派の論客」として知られ、中国や韓国との近隣外交を重視した活動に取り組みました。

89歳でした。

高市首相「心よりご冥福をお祈り申し上げる」

高市総理大臣だいじんは河野洋平元衆議院議長が亡くなったことについて、午後8時ごろ、旧ツイッターの「X」に投稿しました。

この中で高市総理大臣だいじんは「ご逝去の報に接し、深い悲しみとともに、心より哀悼の意を表す。河野先生は、長年にわたりわが国の政治の中枢にあって、国政の発展と議会制民主主義の確立に多大なるご尽力をされた。特に、衆議院議長として長期にわたり重責を担われ、与野党やとうの協調を重んじながら公正かつ円滑な議会運営に尽くされたご功績は今日(こんにち)においても高く評価されている」としています。

そして「自民党総裁として政界再編期の困難な時代に党を率い、政治改革への道筋を模索されたほか、外交分野においても、近隣諸国との信頼関係の構築に努められた。とりわけ歴史問題に真摯(しんし)に向き合い、対話と理解を重んじる姿勢は、わが国の平和外交の礎の一つとして記憶されるべきものだ。その温厚誠実な人柄と卓越した見識は、多くの政治家、国民に深い感銘を与え続けてきた。これまでのご功績に改めて深く敬意を表するとともに、そのご遺徳を偲び、心よりご冥福をお祈り申し上げる」とつづっています。